掛け軸/掛軸/禅語「看脚下(かんきゃっか)」
『碧巌録』第二二則の頌に「象骨巖高人不到。到者須是弄蛇手。稜師備師不奈何。喪身失命有多少。韶陽知。重撥草。南北東西無處討。忽然突出�杖杖頭。〓(才尢力)對雪峰大張口。大張口兮同閃電。剔起眉毛還不見。如今藏在乳峰前。來者一一看方便。師高聲喝云。看脚下。」(象骨は巌高くして人到らず、到る者はすべからく是れ蛇を弄する手なるべし。稜師、備師、いかんともせず。喪身失命多少かある。韶陽知って、重ねて草を撥う。南北東西討ぬるに処なし。忽然として�杖頭を突き出し、雪峰に放対して大いに口を張る。大いに口を張るや閃電に同じ、眉毛を剔起るも還た見えず。如今、蔵して乳峰の前に在り、来る者は一一方便するを看よ。師、高声に喝して云く、脚下を看よ。)とある。象骨(ぞうこつ);福州(福建省)象骨山。『祖庭事苑』に「象骨、即雪峰之別山、以形似而稱。」(象骨、すなわち雪峰の別山、形似るを以って称す。)とある。稜師(りょうし);中国唐五代の禅僧・長慶慧稜(ちょうけいえりょう:854~932)。備師(びし);中国唐五代の禅僧・玄沙師備(げんしゃしび:835~908)。韶陽;雲門のこと。雲門大師が韶州雲門山に住するによる。剔起眉毛(てつきびもう);目を見開くこと。乳峰(にゅうほう);雪竇山のこと。『五燈會元』の五祖法演禪師章に「三佛侍師於一亭上夜話。及歸燈已滅。師於暗中曰。各人下一轉語。佛鑑曰。彩鳳舞丹霄。佛眼曰。鐵蛇橫古路。佛果曰。看脚下。師曰。滅吾宗者。乃克勤爾。」(三仏、師に侍し一亭上に夜話す。帰るに及び灯已滅す。師、暗中に曰く、各人一転語を下せと。仏鑑曰く、彩鳳、丹霄に舞う。仏眼曰く、鉄蛇、古路に横たわる。仏果曰く、脚下を看よ。師曰く、吾宗を滅する者は、すなわち克勤のみ。)とあり、圜悟克勤がその師五祖法演に示したところから特に喧伝されるようになる。三佛;五祖法演の弟子で「五祖下三佛」といわれる、佛果克勤、佛鑑慧懃、佛眼清遠の三人。「演門二勤一遠」ともいう昔、中国に法演(ほうえん)という禅僧がいました。その坊さんが、ある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る時のことです。暗い夜道ですから明かりを灯さねば帰れません。
その時、一陣の風が吹いてきて、その灯が吹き消され真っ暗になってしまったのです。
一向はそこで立ちすくみます。
その時、法演が三人の弟子達に向かって質問をしました。
「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。
ここで暗闇とは、自分の行く先が真っ暗になったということです。例えば、思いも寄らない災難に遭って、前途暗たんたるところをどう切り抜けていくかという問いです。
弟子たちが、それぞれ自分の気持ちを言葉に出して述べました。
まず、仏鑑(ぶっかん)という人が「すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えました。しかし師匠はうなずきません。
次に仏眼という人が答えた。「真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである」と答えた。またも師匠は許しません。
そして最後に、圜悟克勤(えんごこくごん)が「看脚下」(かんきゃっか)と答えました。つまり「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう」と答えたのです。この言葉が師匠の心にかない「そこだ、その通り」と絶賛したということです。
暗い夜道で突然明かりが消えたなら、なすべきことは何か。
それは余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということなのです。
転じて、自分自身をよく見なさいということです。
自分の足元を見直しながら、生き方を深く反省しなさいということ。足元を見ると同時に、自分の至らなさを見て欲しいのです。足元を見ると言う事の中には、こういった大事な意味があります。
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